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押井守監督が語る日本アニメーションの「あの頃」と「これから」

『うる星やつら(スタジオぴえろ→スタジオディーン・1981~1986)』『GOHST IN THE SHELL / 攻殻機動隊(Production I.G・1995)』『機動警察パトレイバー(スタジオディーン・1989)』……後続の世代に大きな影響を及ぼした伝説的なアニメーションから、『紅い眼鏡 The Red Spectacles(1987)』をはじめとする実写映画まで。虚構性をテーマに実験的な作風で日本の映像表現をリードしてきた押井守監督。同氏の作品に音響監督として関わってきた若林和弘先生(本学アニメーション学科教員)を聞き手に、駆け出しから若手だった「あの頃」、そして「これから」を語っていただきました。

1枚の張り紙から始まった

6年間通った大学を1976年に卒業した押井氏は、映画監督を目指して就職活動をするものの、うまくいかず、ラジオ番組制作の会社に一時籍を置く。だが、その会社も辞めてしまう。そんな「無職」だった頃、アニメーション・スタジオ「竜の子プロダクション」(現・タツノコプロ、以下タツノコ)の門を叩いた。

押井 タツノコへ行ったのはたまたま。電柱に募集の張り紙が貼ってあるのを見て、面接受けに行ったの。その数年前かな、タツノコ制作の『科学忍者隊ガッチャマン(タツノコプロ・1972~1974)』を面白いなと思って見てたんですよ。後に私の師匠になる鳥海永行って監督の出世作なんですけど、まるで実写映画みたいだなあ、と。
面接では「御社の作品は全部見てます」とか言ってね。ウソです、『ガッチャマン』しか見てない(笑)。「編集もできます」と言ったけど、それはフィルムじゃなく、ラジオの仕事で扱ったテープのことだし、「絵コンテ描いたことは?」と聞かれて「あります!」と答えたのは大学時代に自主製作映画でちょっと描いただけ。まあ、それでもうまく引っ掛かったんですよ。
あの頃はアニメブームの初期で、人手不足だったんだね。『ガッチャマン』が月曜から金曜の夕方に毎日やっていた。週5本ともなれば、作画・背景・撮影なんかは外部プロダクションに外注することもある。だけど演出は絶対に自前でなきゃいかんということでね。

若林 それがタツノコのポリシーだったんですね。当時のタツノコといえば、『ガッチャマン』に続いて同路線の『新造人間キャシャーン(タツノコプロ・1973~1974)』やファミリーものの『てんとう虫の歌(タツノコプロ・1974~1976)』、それから『ヤッターマン(タツノコプロ・1977~1979)』シリーズなど、幅広く展開していたわけですけど、どれくらいのスタッフでやっていたんですか。

押井 200人ぐらいはいたよ。最初は東映動画の下請けをやってた会社だからね、東映を見習って、小さいながらも編集、撮影、演出も全部の部署が揃ってたわけ。

若林 西久保瑞穂さん、真下耕一さん、うえだひでひとさんと押井さんで「タツノコ四天王」なんて呼ばれるようになるわけですが、押井さんが入った頃、すでに他の3人はいたんですか。

押井
 いた。タツノコが、これも東映動画にならって大学卒の演出家を育てようとしていた頃で、彼らは大学を出る前、私より1年4カ月ほど早く就職してたの。私は26歳だったから、年齢はこっちが上なんだけど、アニメスタジオっていうのは技術職だから、大事なのはキャリアのみ、何年やってるかという経験年数の世界なんですよ。
 

若林
 ああ、それで西久保さんは今も「押井君、押井君」って、ちょっと先輩面してるんだ(笑)。

「最短距離」で仕事を覚える

押井 出勤初日、午前中だけ編集部でちょっと仕事教わって、弁当食べてたら演出部長のところに連れていかれてね。「君は演出家志望だったよね。じゃあとりあえずコンテ切ってもらおうか」って。要するにテストなんですよ。終わったシリーズの脚本から適当に引っこ抜いて1週間で描いてきて、と。その間、会社ではコピーとかの雑用しながら、なんとか挑戦してみたら、どうにかコンテが切れた。奇跡のように(笑)。見せたら「いいじゃない」って。それで、入って3週間で演出家になったの。

若林 なんと大雑把な(笑)。そういう時代だったんでしょうね。


押井
 やっぱり人手不足だからね。だけど、当時の先輩でも演出助手になるのに3年、演出家には最低5、6年かかる中で、全部すっ飛ばしてるから、各部署からいびり倒されたよね。撮影部、アニメーター、仕上げのおばさん。一番強烈だったのが音響の監督。ダビングの時に直しを見ながら、「このカットいらない」「これもいらない」ってさんざんやられるわけ。
でも、それはすごく勉強になった。たとえば、ロングショット(遠景)からいきなりアップになったりすると、音を入れにくいでしょう。なるべく長いカットを作って音楽のノリを良くしてからテンポを上げていくとか、そういうことを全然知らなかったからね。音響を考えて絵を作るとか、いかにロングをうまく使うかといった基本的なことを学んだ時期ですね。

若林 絵の都合でやる人多いですもんね。アニメーター出身の演出家は特に。で、そうやって現場で怒られながら仕事を覚えた、と。

押井 こっちも歳が歳だから必死だよね。当時のアニメスタジオなんて、みんな16歳や17歳で仕事始めてるんだからさ、26歳の新入社員なんて全然使えないオヤジなんだよ。その汚名を晴らすべく、最短距離でものを覚えた。とにかく怒られまいとして(笑)。
最初に自分で演出をしたのが『一発貫太くん(タツノコプロ・1977~1978)』。その前に『ヤッターマン』では、「ゾロメカ」の担当でしたね。毎回小さなメカがゾロゾロ出てきて、最後は爆発して終わるんだけど、その場面を専門に担当する「メカ専」。それをやりつつ、監督に「これやっといて」と言われたら代わりに動く。「総助監督」と呼ばれてたけど、要するに監督直轄の下請け演出(笑)。
仕事がいちおうできるようになると、死ぬほど忙しくてね。タツノコにいた2年半、ほとんど寝る暇もなかった。だけど人間って面白いもんで、誰かに頼りにされる、同僚や他の部署の責任者に認められるというのがモチベーションになるんだよね。それしか気力を保つものがない。
でもね、その結果、〝スーパー便利屋〟になっちゃったんですよ。やっつけ仕事や、ごまかす方法ばかりうまくなっちゃって、さすがにこれはマズい、ちゃんと演出家として勉強しなきゃと思うようになったの。いずれは演出だけじゃなく、ちゃんと監督になって映画も作りたいと思ってたから。

若林 それで、タツノコから独立して「スタジオぴえろ」を設立していた鳥海永行さんに弟子入りするわけですね。

師匠を追って移籍を即決

タツノコ時代、師匠の鳥海監督のことは仰ぎ見るばかりで、接点はなかった。「怖い」印象もあった。しかし、一念発起して新会社へ入れてもらえるよう直談判に行く。

押井 鳥さんはその頃、『ニルスのふしぎな旅(スタジオぴえろ・1980~1981)』の第1話を作っていてね。ニルスという少年がガチョウのモルテンと一緒にガンの群れに交じって、北欧のラップランドを目指すという話。1年のシリーズで52本。その噂がいろいろ聞こえてくるんだよ。
30分番組でセル画を1万2000枚使った、いや1万8000枚らしいぞ、とかさ。こっちは1話4000枚どころか、『ガッチャマンII(タツノコプロ・1978~1979)』では3000枚切れと言われて、背景を使い回したり、デタラメやったりしているのに(笑)。北欧へロケハンに行った、鳥の群れを撮影してきたとか、すごく緻密にやってるらしい。そんな話を聞くたび、みんなピクピクしてた。
で、師匠に会いにいったら「ぴえろって会社はできたばかりでまだ不安定だ。タツノコは老舗だし、あと3年踏ん張れば監督になれるから」って止められたんだけど…。

若林 実際の状況としては、タツノコから演出家がどんどん辞めていった時代ですよね。ぴえろもそういう流れでできてますし。

押井 そう。タツノコの現場は崩壊しかけていたから、こっちも粘った。師匠には「とにかく3日考えてからもう1回来なさい」と言われたんだけど、翌日また行ったの。「一晩考えました。やっぱり入れてください」って。すると、「そうか、じゃあ仕方ないな」となった。師匠の言葉通り3日待っていたら、たぶん入れてくれなかったと思う。偉い人たちの言葉には必ず裏がある。試されてるんだよね。


若林
 3日というのは期限のように見えて、実は「本当にそう思っているなら3日も待つ必要がどこにある?」ということですね。

押井 うちの師匠は「あきらめさせる」名人でね。演出家や監督というのはなりたいやつがなっちゃいかん、こっちがやらせたいやつにやらせるんだ、というのが持論だったの。「自分がやりたい」と言う人間よりも「こいつは才能がある」と思う人間を重視していた。幸いにして、ニルスの演出を担当した私の仕事を気に入ってくれたようで、その後、いろいろ任されるようになった。
ニルスが終わった後に一時、倒産の危機があったんだけど、それをなんとか乗り切ってスタジオの評価が定まると、今度はレギュラー週3本の体制になるの。師匠が『太陽の子エステバン(スタジオぴえろ・1982~1983)』というインカ帝国なんかも絡む歴史SFもの、先輩の案納正美さんが『まいっちんぐマチコ先生(スタジオぴえろ・1981~1983)』。私は『エステバン』の監督補佐を命じられたんだけど、あれはNHKのシリーズで、じっくりと準備できたんですよ。帆船の模型を作ったり、何万匹の蝶々の大群を描いたりね、ぴえろのアニメーター総動員して1話で2万枚使ったりしていたんだよね。

若林 2万枚…いくらなんでも程があるでしょう(笑)。

『うる星やつら』で初監督

押井 そこへ降って沸いたように、『うる星やつら』の監督をやらないかという話が社長から私のところへきた。「うちの師匠は了解してるんですか」と聞いたら、「いや、これから話すんだけどさ」って。勝手に受けたら怒られるだろうし、師匠の下でもう1、2年は監督修行したいという思いもあったから正直迷ったんだけど、怒られるリスクと、いきなり監督になれるチャンスを天秤にかけて、結局受けることにした。案の定、師匠は怒って、私は破門も覚悟したんだけど、「決めたことは仕方がない。責任持ってやれ」と言ってくれたんですよ。「監督になった以上、俺は一切口を出さんから」と。
そこから、タツノコ時代どころじゃない怒濤の日々が始まって、本当に死ぬ思いで2年半作り続けることになるんだけど。

若林 あれはテレビのシリーズやりながら、並行して劇場映画もやってましたよね。両方とも押井さんが監督をやっていた、という。

押井 無茶だよね。だけど今までの人生振り返ってみると、なりゆきできちゃったみたいなものだから、あそこで急に殊勝になってもしょうがないなと思ったのだよね。師匠に怒られようが、破門されようが、チャンスは絶対に活かした方がいいと判断した。だから『うる星やつら』では勝負したよね。いろいろ野心的な試みをしては、フジテレビに呼ばれたりして。

若林 世界初のオリジナル・ビデオ・アニメーションといわれる『ダロス(スタジオぴえろ・1983~1984)』も、その時期ですよね。

押井 そう、師匠と共同監督でね。とにかくあの時期は大変で、それなのに結構酒飲んでたりして、本当に死にかけたもんね。で、『うる星やつら』の2年半が終わった頃、そろそろフリーになる潮時かなと思って師匠に話しにいったの。「ふざけるな!」って叱られるかと思ったけど、「巣立ちの時はいつか来るもんだ」って。「俺もあと10年若ければ」と言ってましたよ。私は32歳の若造だったけど、師匠はスタジオの看板監督だから逃げられなくなってたんだね。
 

チャンスを逃さない感覚とは

こうしてフリーになったものの、思うように仕事がこない。ちょうど知り合ってまもない宮崎駿監督に誘われ、しばらく居候生活。『風の谷のナウシカ(トップクラフト・1984)』が大成功した後の宮崎監督と、仕事がない押井監督は机を並べてマンガを描いたり、延々語り合ったりしたという。1985年に撮った『天使のたまご(スタジオディーン・1985)』は前衛的な意欲作だったが、セールスは振るわず。だが、その経験から得るものがあった、という。

押井 あの『天使のたまご』の経験が結構こたえましてね、ものづくりって自分勝手にやっても限界があると学んだの。商業監督としての発想や仕事のやり方がわかったのは、次の『機動警察パトレイバー』からでした。その間には若林の師匠、斯波重治さんのプロデュースで『紅い眼鏡 The Red Spectacles』という実写映画を撮り、それ以降、実写とアニメーションを両方やっています。実写映画の助監督経験も何もないのに、横滑りでいきなり監督になっちゃった。マンガの原作もやったし、ゲームも4本作った。小説も、数えてみたら13冊書いてる。
私の場合、すべてのチャンスはちょっとした巡り合わせなんだよね。無理かなと一瞬思っても、それに乗っかってみる。すると、それが仕事になっちゃう。そういう体質になっちゃったの。


若林
 体質なんですか、それは(笑)。

押井 うん、体質だね。こうして話してくると、私の人生は巡り合わせの連続と思われるかもしれませんが、若い人たちに言っておきたいのはね、チャンスは必ずあるんですよ。だけど、普通はだいたいそれに気付かない。「幸運の女神には前髪しかない」って言葉があるんだけど、気付かないと幸運の女神は水の中に消えちゃうんだよ。それを掴むのは独特の感覚なんだけど、まあ結局は場数踏むしかない。だけど場数踏んでも、できない人はできない、というね。

若林 チャンスに気付かないというのは確かにありますよね。

押井
 私は、幸運の女神の前髪をつかんだら絶対に離さなかったけど、そのためのリスクはいくらでも犯してきました。だから仕事がない時期が何度かあった。少し前もね、『スカイ・クロラ The Sky Crawlers(Production I.G・2008)』という映画が終わった後、3年ぐらい仕事がなかったんだよね。
これはアニメーションの最後の、断末魔みたいな映画。まともにアニメーション作るのは最後かもしれないって気持ちで、自分で持てるものを全部出しきった。ようやく映画作りの意味が体になじんだというかね。映画ってやっぱり時間を描くことがテーマなんだということに、あらためて気付いた。自分の中で一番気に入っている作品は『パトレイバー』でも、『(GOHST IN THE SHELL /)攻殻機動隊』でもなく、実はこれです。
なのにこの後、仕事がなくなってね。難解だって。だれも理解できないって言われて。

辞めなければ絶対に席はある

若林 たぶんテレビ局主導で作ったアニメーションで、彼らが望む数字に届かなかったからですね。

押井 それはその通り。これは8億円かかってるしね。
だけど、3年間仕事なかったのに、一昨年、昨年と3本まとめて仕事が来た。今はこれ全部やるしかないかな、と思ってますけどね。監督業ってのは基本的に自分の都合で仕事できない。向こうからくる仕事に合わせていくしかないの。それが嫌なら辞めるしかない。

若林 自分が出資して作ってないですからね。

押井 そうだよね。人のお金だから好きなことできるんで(笑)。
ここにいる若い人たちはアニメーションの仕事をやりたいんだと思うんですけど、はっきり言ってこの先、そんな仕事はないです。私は日本のアニメ業界が一番景気のいい時に監督になったので、やっぱり幸運だったんですよ。やりたい放題、いろんな作品を作ってきた。映画だけで40本ぐらいになる。
だけど、これからはオリジナルでアニメーションを作るのはたぶん難しい。日本のアニメーションは元の世界に戻ったんだよね。マンガと二人三脚の時代に。売れているマンガをアニメ化して、テレビで流して…という『NARUTO -ナルト-(スタジオぴえろ・2002~)』や『ONE PIECE(東映アニメーション・1999)』のかたちだね。

若林 製作費がなかなか回収できないから、安全策をとって回収が見込める数字の中でやるしかない、という。


押井
 これからのアニメーションは昔の地味な世界に戻ります。それでもなお、アニメをやりたいんだって人じゃないとたぶん無理だと思う。だけど、3年とか5年、真面目に頑張っていれば、辞めなければ絶対に席はある。
それからもう一つ言っておきたいのは、映画の仕事というと、半数以上の人は監督になりたいと思うんだよね。だけど、監督というのはスタッフの一人なんです。誤解されているけど、監督が映画を作っているわけじゃなく、映画作っているのはあくまでプロデューサーなんでね。監督は、現場の総責任者で、クオリティーの管理を任されている人間だと思えばいい。
映画って、ものすごい数の人間が関わっているんです。監督以外にもそれぞれ違う楽しさがあって、私の経験から言うと、監督って現場ではあんまり楽しくない。みんなが喜んでるときに一緒になって喜べない立場なんですよ。スタッフが考えてないことを絶えず考えなくちゃいけないから。つまらないというか、孤独です。ストレスが多いし、そのわりに、それほど見返りがあるわけでもない。平気で仕事なくなるしね(笑)。

「自分」を捨てたやつが勝つ

若林 だけど、話を聞いてくると、押井さんの“わらしべ長者”モードはすごいですよね。電柱の張り紙をたまたま見なかったら、アニメの道には入ってないかもしれなかったんですよね。

押井 私はたまたまアニメスタジオに入っちゃったんですけど、人間って、最初の志と違う形で世に出たとしても、その仕事で評価されたい、認められたい、他人が「彼じゃなきゃだめなんだ」と言ってくれたときにどれだけ達成感があるかってことを知っちゃった。
そういう偶然の積み重ねが、たぶん人間を社会人にしていくんだよ。職業が人格になる、ということ。自分の人格なんて、特に若い頃はないも同然。自分に合った仕事を探すんじゃなく、自分を仕事に合わせていけば、違う自分になれるんだよ。

若林 環境に左右されて仕事が人格になっていく、と。まあ人生なんて、半分以上は周りに作られていくものですよね。


押井 だから、「自分」というものに幻想を持たない方がいい。自分でイメージする「自分」なんて、いい加減なもの。仕事に就いて、他人の評価にさらされた途端にふっとんじゃうよ。
だから、別になりゆきでいいと思うよ。なりゆきの中で自分を見つけていくことが大事なのであってね。若い人は「自分はこうだから、この道しかない」と考えたがるけど、それは間違いというか、根拠のないただの幻想だから。
一刻も早く「自分」という幻想から目覚めたやつが勝ち。自分を捨てちゃったやつほど強い者はいない。そういう考えでいれば、実は人生が違ってくるんだよ。だからこそ、人生は面白いんだ。
 
いかがでしたでしょうか。押井守監督の意外な一面や、その考えの一端に触れていただけたと思います。アニメーション学科では、これからもさまざまなゲストを招き、お話しいただく予定です。

押井 守(映画監督・演出家)

映画監督・演出家。1951年生まれ。東京都出身。東京学芸大学教育学部美術教育学科卒。
タツノコプロダクションに入社、テレビアニメ「一発貫太くん」で演出家デビュー。
その後、スタジオぴえろに移籍し、「うる星やつら」ほか、数々の作品に参加。後にフリーとなる。
日米英で同時公開された劇場版アニメ『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(95)はジェームズ・キャメロン監督やウォシャウスキー兄弟ほか海外の著名監督に大きな影響を与えた。
また、『紅い眼鏡』以降は、『アヴァロン』など多数の実写映画作品にも意欲的に挑戦を続けている。
主な監督作品『機動警察パトレイバー』『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』など。
最新作はカナダとの国際共同製作『Garm Wars The Last Druid』。

若林和弘(マンガ学部 アニメーションコース教員/音響監督・演出)

音響全般(主に音響監督・演出。現在フリーランス)。1964年生まれ。劇場作品『GOHST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(95年)、『イノセンス』(2004年)などの押井守作品の音響や、『もののけ姫』(97年)、『千と千尋の神隠し』(01年)、『ハウルの動く城』(04年)などのスタジオジブリ作品の録音演出を務める。このほか、数多くテレビアニメ、劇場作品の音作りに参加。

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